コンピュータ・インタフェースの最終形態

キーボードやマウスから始まり、文字認識、画像認識、音声認識と、コンピュータのインターフェースは人間本来のコミュニケーション方法に近づいてきました。そのような流れからインターフェースの最終形態は「人間が考えただけで入力が行えるデバイスである」と一般的には言われています。

しかし、その話の根底にあるのは「人間とは能動的である」という一元的な見方なのではないでしょうか。組織構成された社会をを見渡すと、大半の方が「受動的」に行動しています。言われるままに行動するのは責任を最終的に取らされる事が少なく、能動的に行動する場合のリスクを知っていれば、自分の意思だけで行動する方が難しいと誰もが知るところです。

それは娯楽の世界にまで言える事で、スポーツなどの能動的娯楽を好む反面、テーマパークのような完全なるエンターテイメントを受動的娯楽であると認識せずに好みます。ここで重要なのは、テーマパークの良し悪しを言っているのではなく、受動的な娯楽を選択することが能動的であると錯覚している事です。

その顕著な例として野球やサッカーを挙げると、競技する事は能動的で、観戦する事は受動的なのですが、選手も観客も自分の意思で行動しているので能動的だと感じています。また、どちらの対象人口が多いかは言うまでもないでしょう。

この時、観客が考えているのは「何を見るか」という「受動対象の選択」であって、受動対象と能動対象の選択はしていません。具体的に言うと、「野球とサッカーのどちらを見るか」という選択は行いますが、「野球をするのか見るのか」という選択は質疑自体が無意味なのです。

話を戻して、コンピュータ・インタフェースの事を言えば、人間が考えただけで入力が行えるデバイスは入力インタフェースの最終形態の1つと考える事はできますが、人間の本質に迫ると「コンピュータの判断を人間が選択する」のが実際には使いやすく、「何でもできる機械」を誰もが便利だと感じるのは、「はい」と「いいえ」の2つのボタンだけで十分になった時であり、それがコンピュータ・インタフェースの最終形態ではないでしょうか。

極論を言うと、最適な指示を1つだけ出して人間はそれに従うだけの「入力が存在しないデバイス」が最終形態かもしれません。コンピュータが万能であるという神話は信じていませんが、大量の情報を簡単に入出力できる能動的なインタフェースを期待すると共に、それを前提としない受動的なインターフェースにも期待しています。